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     うらさ 千手院


浦佐城の沿革

実城(本丸)跡より越後三山を望む
実城跡より坂戸城跡を望む

標高約300メートルの山城で、応永28年(1421年)大関氏により築城されたと云われております。

『大和町史』によると、浦佐城は毘沙門堂の背後にそびえる薬師山で、地籍は大字浦佐堂ノ入に属している。
実城(本丸)部は標高約295メートルである。山麓には江戸時代の三国街道が通り、魚野川を隔てて、北東には板木城、南東には坂戸城、東方には大桑原城、板木城、湯谷城、桐沢城がある。浦佐城の実城(本丸)部は、東西にのびた馬の背状の山頂を削平して、4つの郭ををつらねたもので、それぞれ低い土居で仕切られている。実城(本丸)部西方にある背後は、深さ約10メートルの懸崖巨溝をもっている。

その先にも4つの郭がつらなり、尾先を二重の空濠で防備している。(県下最大級)
浦佐城は薬師山の地理地形をすべて利用して築いた山城で、板木城、坂戸城、樺沢城に類似した要害堅固の城である。

『新編会津風土記』には、天正年中に大関常陸介(ひたちのすけ、親憲のこと)が住したと記録されている。
浦佐城出生といわれ、全国区で活躍した大関親憲の詳細はこちらのページを参照下さい。

また『南魚沼郡誌』には、佐々木、北条、新田などの重将が在城したと伝えるが、確証する文献資料は少ない。
天正6年(1578)の「御館(おたて)の乱」の際には、浦佐城将、清水藤左衛門が上杉景勝に属して北条軍の侵攻にもびくともせず、逆に打ってでることもあったという。この功績により、景勝は清水に数度の感状を与えている。

実城跡から二の丸へ続く帯郭

落差約10メートル、登って攻めることは先ず不可能。
三の丸跡

この下にも空堀があり、多角度から攻撃できる設計になっている。