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     うらさ 千手院


浦佐城将・清水藤左衛門

『大和町史』によると、清水藤左衛門の先祖については、米沢上杉家に記録が残されている。
それによれば、清水氏は源氏で、信州伊賀良荘松尾の小笠原遠江守康為の後裔(こうえい)である。『歴代古案』によれば、天正6年(1578)上杉景勝は清水藤左衛門の嫡子内蔵助に書を送り、甲斐武田氏が景勝に味方して加勢すること。上田衆からも広居、針生申越の分については、おしつけ加勢があること。春日山城の備えは変わりなく手堅いこと。浦佐の要害については、油断なく用心を申しつけること。万事辛労が多いと思うが、入念に稼ぐよう依頼している。

清水一族は、景虎をたすける小田原北条氏の軍を引受けて善戦し、見事に浦佐城を堅守したので、景勝は天正6年10月6日清水藤左衛門に感状を送った。浦佐城が天正6年から前後3年も続いた御館の乱で、関東の小田原勢の猛攻撃に耐えて、これを撃破したのは城兵や郷民たちの勇戦の結果もあるが、浦佐城そのものが要害堅固であったからだろう。

御館の乱の戦雲がようやくおさまった天正9年(1581)2月19日、景勝は清水藤左衛門の軍功を賞し、佐藤分・小橋分・関分を宛行い、軍役等を如在なく勤めるよう朱印状を与えている。

米沢上杉家の資料には、清水藤左衛門の書き上げがあるが、それには清水藤左衛門・内蔵助・藤八郎、七右衛門等についての記述があり、浦佐の城に指置かれ、御館の乱のときに敵数多を討ち取り、無事に城を守り通して感状を賜ったこと。そのほか数度の御陣にお供をして感状を与えられたこと。会津国替えのときは、病気のために供奉することができず、遅れて会津へ移ったが、その後程なく死亡したこと等が記されている。

また、室町時代に建立されたと云われる浦佐毘沙門堂は、昭和6年4月の火災により前立本尊の毘沙門天と共に焼失してしまったが、焼失前の毘沙門天の厨子には「天正20年(1592)源誉清水」と刻まれていたと『大和町史』に記載がある。浦佐城主を勤めた清水一族との関わりを推測できるものである。

浦佐駅前からの浦佐城跡