山王権現様か???

長崎の原爆投下で被爆された方の御霊が安らかでありますように、心からお祈り申し上げます。

昨晩からお盆にあわせて浦佐毘沙門堂山門のライトアップが始まったようです。樹齢400年以上のケヤキ達に囲まれる山門は全国的もそうないはずです。

今日は台風の影響を気にしつつも、朝から曇り空、気温も一気に低くなったので、予定を変更して浦佐城跡・薬師様登山道の下草刈りに出かけました。1人での作業はとても危険なので、ゆ~っくりとペースダウンしながら行いました。まだまだ手が行き届きませんが、20日と22日に団体で登られる方がいるようでしたので、ある程度はキレイにしておきたいと思っています。

さてさて話は変わります。

昔、浦佐は上浦佐と下浦佐に分かれていた歴史があります。下浦佐は今の毘沙門堂付近、上浦佐は今の田町(もと浦佐スキー場下)付近であったそうです。(上下は、魚野川の上流か下流か、で分けられました)それぞれに鎮守様がいらして、上浦佐の鎮守様は「山王権現」、下浦佐の鎮守様は「白山権現」でありました。

のちに上浦佐と下浦佐が合併することになり、鎮守様は統合されて、毘沙門堂境内に白山神社として祀られました。
もともと白山神社は千手院が管理維持を行っていたのですが、明治に入り、神仏分離、廃仏毀釈によって、毘沙門堂境内の白山神社は西の現在地に移され、千手院の手を離れ今のW宮司に任されました。

それまで祀られていた白山様のご神像は、「お姿」を祀ることが許されず、今の古山門に移されて千手院が何とかお守りさせていただきました。

ただ、もう一方の山王権現様はどうなったのか?天保に修復をされたという記録だけは千手院に残っていたのですが、その御神像はどこにいってしまったのか?長年の疑問であり、今は亡き老僧も知りませんでした。

こちらがその「山王権現」である可能性がでてきました。
ずっと何の仏様であるのか分からずにいました。それがお盆の掃除の際、うっかり台座が外れてしまいました。

「やってしまった」と、ショックを受けたのですが、何と台座の中に文字が見え、「山王権現、天保十年、千手院住職 快尊○○○」と墨書が見つかりました。まだ、はっきりとしていませんが、たぶん間違いないでしょう。

祖母の新盆を迎える時に、このような発見があり、本当にうれしく思っています。
これで1700年代には祀られていたはずの上浦佐と下浦佐の鎮守様、「白山様」と「山王権現」がきちんと結ばれた訳です。点が線になりました。

あとは急ぎは白山様御神像の修復です。相当に痛みがあるのです。
しかししかし、何とも有難い発見でありました。

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