これだけは伝えておきたい。

毘沙門堂の回廊、明治12年に賢寶僧正によって建立された素晴らしい回廊です。長年の痛みもあり安全のために筋交いが入っていますが、静寂な雪の中、どれだけの参拝者がここを歩いたのかと考えるだけで有難い思いにさせられます。

お祭りに向けて多聞青年団の事務所も開かれたことでしょう。
これから講中回りや様々な準備でさぞ忙しくなることでしょう。

今日は大真面目なお話しをさせていただきたいと思います。かなり長くなりますがお許しください。3月3日の裸押合大祭についてです。
かなり厳しい言葉を投げかけるかもしれません。

本題に入る前にこれだけは誤解のないようお願いしたいのです。

皆さん、本当に良い人達ばかりです。
毘沙門様が栄えるように懸命に頑張ってくれている、また尽くしてくれた人達です。
千手院は普光寺様住職の決断を尊重し、それを全力で応援します。
毘沙門様のことについて、千手院が口出しするなと言われるかもしれません、生意気だと思われるかもしれません、しかし毘沙門堂の御前立ち本尊の毘沙門天は千手院本堂から遷座されています。今までの歴代住職の事を考えると千手院住職としてこれだけは言わせていただきたいのです。

大勢の関係者が集まる席があれば、その時に直にお伝えしたかったのですが、それも叶いませんでした。
つたない千手院のブログには、地元を、毘沙門様を大切に思ってくださる方がたまには訪れてくださると思い、これだけは伝えておきたいのです。

浦佐の方はすでにご存じの方が多いと思います。正式決定ではない?ようですが、来年以降裸押合大祭の日程が土日に変更する方向での話が、本格的に進んでいるとのことです。基本的に3月3日ではなくなる可能性があります。
お日待で各家をお参りしていると皆さんその話題になります。賛否両論ありますが、比較的賛成の方が多いようです。理由は参加しやすい、集客しやすい、青年団が集まりやすい・・・ということのようです。

日程変更について、昨年の暮れに初めて話を聞かせていただきましたが、すでに決まっていた話のようで、ただただビックリさせられました。
それ以降、日々歴代住職がどう思うか?何と言うだろうか?と考えさせられ、自分勝手ながら胃酸過多のようです。

裸押合大祭は現在実行委員会や普光寺総代、浦佐多聞青年団を中心に開催、運営、取り仕切られていますが、このような重要な案件の最終責任者は普光寺様の住職であると思っています。裸押合大祭は本来、毘沙門堂別当普光寺の儀式、行事であり、終身であるはずの住職が決断、責任をとっていかないといけないものだからです。

毘沙門堂別当普光寺様の幕末から今に至る歴史を要点のみ振り返ります。
今まで出版された裸押合大祭の記録には、歴代住職の関わりの記述が皆無に近いので、知らない方が大勢いらっしゃると思います。

幕末から明治、普光寺様には賢空、弘賢、賢寶、千手院には賢薀和尚、他にも大勢の大変な名僧がづらりと揃っておいででした。
その方達のもとで高野山第393世座主の関栄覚大僧正も誕生していることも何かの因果なのかもしれません。

毘沙門堂が大正6年(1917)に国の特別保護建造物(今の国宝)に指定されたのも、幕末から明治に入ってからの賢寶和尚等の尽力、全国の人脈、江戸との深い繋がり、何十年にわたる働きかけがあったからに他なりません。もちろん浦佐の人々の支えがあってこそであります。
越後を代表する、全国に誇れる歴史を持つ毘沙門堂だということが認められたのです。

それだけの尽力をもって得られた特別保護建造物指定の毘沙門堂も、昭和6年(1931)国宝指定後わずか14年で、なんと放火で焼失してしまうのです。
その時、普光寺様では住職の後継が決まらず、法類会議(お寺の弟子達)が行われていた期間中、不満を抱いたある僧侶の子供が火を放ってしまったのです。その時の様子を千手院先々代・賢能和尚は詳細に記録に残しております。

焼失後すぐに内山賢峰和尚を普光寺住職として、浦佐や信者の方の総力を挙げてやっとの思いで昭和12年毘沙門堂を再建完成。しかし、内山賢峰住職についてもその後はあまり普光寺様に呼ばれることも、語り継がれることもされなくなりました。記録にもほとんどお名前が出てきません。一体何故でしょう。賢峰和尚は昭和21年3月3日に遷化されました。

再建された毘沙門堂も日本を代表する近代建築家、伊東忠太博士設計の大変貴重なお堂ですが、平成に入り山門とあわせて屋根が銅板葺に変わってしまいました。
毘沙門堂が焼失した際にはその灰を全部集め、「御灰塚」を建立しました。鬼瓦(猫)は少し残っていますが、屋根を葺く前の毘沙門堂と山門の屋根瓦はどうしてしまったのでしょうか?
山門の谷文晁の大作、双龍図も綿密な相談や打ち合わせなく上塗りがされてしまいました。
屋根のことも、双龍図のことも千手院の老僧は本当に嘆いていました。瓦屋根が残っていれば、おそらく県の文化財指定くらいは受けていると思います。

谷文晁の作品は贋作が多いと言われますが、山門二階には本物の板谷桂舟の作品があるのですから、今では真偽は分かりませんが必ず本物であったはずだと思っています。

過ぎてしまった嫌なことばかり書いています。
ただ最初のとおり、当時の住職や総代、役員さん方はみな「良かれ」と思ってやっているのです。その人を責めるつもりなどは全くありません。
しかし、慎重に慎重を重ねた議論や計画はほとんど練られていなかったと聞かされています。結果、寺宝中の寺宝を失う一方なのです。

当初は盛り上がります。しかし、本当の評価は10年以上あとになってでてきます。

以上の毘沙門堂の寺宝となる宝物の消失はどれもが住職不在、いても老体により判断力が落ちていたり、総代任せになっていたり、外部に居住していたり、後継者が決まらず、といったきちんとしたトップ不在の中の出来事、行動であります。

残念ながら、今の普光寺様の状況はその歴史に非常によく似ていると思いませんか。

平成16年から無形文化財の選択を受け、14年もの年月をかけて、今なき大勢の人達の尽力で、やっと平成30年に正式に国の重要無形民俗文化財指定を受けたお祭りが、たったの1年で土台ともいうべき3月3日(サンゲツミッカ)の日を変えてしまっていいのだろうか。
前から日程変更のお話しはあったようだが、きちんと準備検討の場をもち、慎重に進めてきた計画なのだろうか?

明治5年、明治政府からの太陽暦の導入で、お正月に行っていたお祭りが、致し方なく明治6年に2月3日、そして明治7年に3月3日体制となってから今まで約150年受け継がれてきたサンゲツミッカ。
当寺の住職は回廊を建立された賢寶僧正様。このお方は今なお名前が残される名僧中の名僧で、大変な博学者でもありました。
そのご住職が明治政府の都合で「致し方なく」日程変更させられた苦渋の判断だったと思います。自分達の都合で変えたものでは決してありません。

今のご住職は私のひとつ先輩で、今考えられる普光寺様の住職は他に適任者はいないと思います。
本当に尽力してくれ、人柄も信用でき、毘沙門様のために頑張ってくれていると思います。ただただ残念ながら「兼務住職(かけもち)」なのであり、正式な住職ではないのです。ただそれを言っていたら何もできないというのも分かります。
また今回は、今のご住職の人柄を信用して、千手院としてはその決断を受け入れたいと思います。

3月3日(サンゲツミッカ)というのも、見えない文化財であり、お祭りの土台なのです。修正会、修二会などの影響を受けている宗教行事です。
内容など、土台の上に立ったものはいつでも変更できるし、元に戻すことも可能でしょう。歴史ある、数え切れない人達の宝物である裸押合大祭が崩れることのないよう、慎重に進めて欲しいと願います。

重い話ばかりしていますが、浦佐の毘沙門堂は本当に別格なのです。越後を代表する寺院です。
千手院のような普通のお寺がどこかを直す、増築をする、壊すというようなレベルではありません。
そのお寺の重責をにない、背負う住職だからこそ、尊敬を集め、他の寺院方からも一目置かれるのです。
どんな事よりも、正式な住職を置くことこそが毘沙門堂やお祭りの発展の出発点です。

文化財指定に尽力してくださった新潟大学の先生がおっしゃっておりました。
「裸押し合いの最後の宗教的な高揚感、これは他のお祭りには決してないものです」

毘沙門天を敬う、歴史ある宗教行事であることを忘れないでいたいものです。
日程変更が決定されれば、10~20年後にその成否が問われると思います。私も普通でいられればそれを見届けることができるでしょう。
「やはりこれで良かった」と思える結果を期待したいと思います。どうぞ、今、お祭りに携わっている関係者の皆さんも見届ける責任があると思います。

「よくそこまで言えるな」「だったらお前がやれよ」・・・というような声が聞こえてきそうです。本当に生意気な、偉そうな事ばかりを述べていますが、これだけは日程変更前に、千手院の住職としてどうしても伝えておきたいことなのです。もし言ってはいけない事を私が言っていたら、必ず毘沙門様からお叱りがあると思っています。どうかご容赦ください。

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これだけは伝えておきたい。” に対して2件のコメントがあります。

  1. たぬき より:

    縁日というもの
    こんにちは。私は余所者ですが…母の実家が1000年以上に渡り神仏の祀り事を一子相伝にて大切に守り続けて来た家だったのですが、当代で絶えようとしています。その中で御先祖からの言葉を受け、神仏を祀る事、縁日という物に向き合う日々を過ごしていた中でのこのブログ記事を拝読して、住職様の御苦悩に涙が出ました。
    お祭りの主役である神仏が置き去りに、ただ観光物資として扱われてしまっているのではないか?現代の生き方に昔のやり方が合わないというご意見も出ているのだろうと考えました。
    それでも、ご神仏の加護を頂いて護っていただく、その為のお祭りである以上、年に一度の大切な行事を人の都合で曲げてしまうのは違うのではないかと私は思います。
    知ったかぶりと失礼な物言いで申し訳ありません。つらいお立場である事、心配しております。

  2. kenjunjun より:

    ありがとうございます
    たぬき様、優しいお言葉を本当にありがとうございます。とても救われた思いです。

    長い歴史を引き継ぐということ、どんな風景がそこにはあるのでしょう。

    たぬき様、感謝、感謝です!

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