浦佐の人が忘れてはいけないお寺

お墓の上部が欠けている写真で誠に申し訳ございません。○○家が写ってしまうといけないためご容赦ください。

遠方にお住まいのため、またコロナに関連して、来寺できないというお檀家さんの法要を本堂で上げ、本日夕方お墓参りをさせていただきました。このブログを見ていただいていれば幸いです。

お気づきの方もあるかと思います。そう、写真右下の卒塔婆がやけに短いのです。これは特に雪深い浦佐の風習です。雪の降らない東京や関東周辺では、平均が6尺卒塔婆であり、卒塔婆はたくさん上げるほど功徳が積まれるという風習があるため、お墓の後ろには180cm以上の卒塔婆がたくさん建っているのですが、浦佐は建てても雪で折られてしまうため、丈の短い卒塔婆を一家で1本お上げするという風習です。しかし、大きさや本数の関係ではなく、卒塔婆には同じ意味合いがあり、何も変わりはないのです。

さて、話は変わります。

今日は長岡市栃尾下塩にあるお寺様の晋山式とご法事に参列してきました。妙圓寺(みょうえんじ)というお寺です。浦佐の毘沙門堂を再建してくださったご住職がいらっしゃったお寺なのですが、残念なことに、ほとんどの浦佐の方がこのお寺の存在を知らないのです。

長岡市下塩「妙圓寺」

この妙圓寺様の新住職の晋山式が執り行われ、出席してきました。昨日までのお天気が嘘のように晴れ渡り、晴れの日にうってつけ、お日様が照りわたりました。

昭和6年、国宝指定を受けていた浦佐毘沙門堂は火災に遭い全焼してしまいました。

その時に、会議のため参集していた法類(お寺の親戚みたいなもの)の中から、内山賢峰和尚様が再建の大任を任され、浦佐毘沙門堂・別当普光寺の住職になり、県内各地、また多くの僧侶、地元の信者や芸者衆を引き連れて東京上野まで出開帳を行い、浄財を集め、東京大学名誉教授、近代建築の大家、伊東忠太博士の設計をもって再建されたのが現在の毘沙門堂になるのです。

こういったことにお金の話はタブーになるかと思いますが、素人の私が簡単に見積もっても、現在、今の毘沙門堂を単純に再建するだけで軽く3億円以上はかかるでしょう。

そのような大仕事をしてくださった、まさしく中興の祖と呼ばれるご住職であったのです。

賢峰和尚は毘沙門堂再建後、弟子であった賢能和尚を引き連れて千手院に隠居し、再建後の経過の落ち着きを見定めて千手院を賢能和尚に任せ、妙圓寺に帰山し、その後、裸押合大祭の三月三日に遷化されました。

その賢峰和尚様のひ孫にあたる方が、本日の新住職となった訳です。代が変われば徐々に関係性が薄れていくのは仕方ないことかと思います。

しかし、浦佐毘沙門堂にとって、この妙圓寺様の内山賢峰僧正さまは決して忘れてはいけない存在なのです。

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